子孫繁栄の本能から遠ざかっている理由
人は集団でしか生きていけない。
集団で生きるからには、ルールをつくらなければいけない。
このルールによって、かなり生きづらい世の中になっていると近頃思います。
そもそも論、人間にとっての生きる上での苦しみは、ほとんどが人間関係です。
人間関係で苦しみ、苦しんだ結果、うつ病になったり、ギャンブルにハマったり、
都合のいい言葉を投げかけてくる人に依存したり。
悪循環しかないなと思っています。
考え方によっては、それが人生であり、その苦難を乗り越えることこそ生きる理由だ。という話も出るかもしれません。
でも、一介の生物として。これらすべてが生きる上で当たり前のことなのかと考えると、疑問でしかありません。
生存本能と子孫繁栄に関連する本能。それ以外に関してはルールによって、雁字搦めになった結果なのだと思っています。
このルールによって生かされている、今の生活を送れているのは前提としてありますが、こんな生きづらい世の中にしているのはヒトそのものなのだと考えると、
ヒトが生きるということはなんて馬鹿らしいことなのだ。と最近思います。
ここでタイトルの話にようやくいくのですが。
こんな世の中を斜に構えてみている一介の人に。同じ思いをする子孫を産めというのは、なんて残酷なのでしょう。
近頃人口問題が騒がれております。私は年齢から考慮するとそこに貢献できる存在ではありますが、そこに貢献できない根本的な理由はそこにあります。
加えて、自分がかつて幼少期を過ごしてきたことを棚に上げて話すのですが、幼少期の子供は大嫌いというところもあります。
そんな存在が、義務感から子を産んだとして、可哀想と思いながら育てることになってしまう。日々苦痛でしかありません。
そんな状況を避けるために育てることを放棄してしまっては法に触れます。法に触れない方法となると自死しかないのです。自分の生存が危ぶまれるのです。
そう考えると、産まない選択肢しかないのです。
最後に。私は"人"より"人間"という単語の方が好きで。
人間とは人の間と書きますが、人間は結局人と人の間――つまりは他者との関係性がないと生きていけない存在なのです。
皮肉なものですよね。ルールに縛られていることを批判しているのに、集団でないと生きていけない生物なのですから。
こんな戯言にお付き合いいただき、ありがとうございます。